親愛なるロスト・ブルーへ

親愛なるロスト・ブルーへ

(未完)


 ぼくの愛するミス・アガート、彼女は祝われるべきだった。

 灰青の花飾りを髪に添え、真白い花嫁衣裳を身に纏って、生涯でいっとうの笑みを浮かべたぼくのねえさん。リゼロッテ・アガート、あるいは単にリズ。その結婚式は、ロスト・ブルーの辺境でひっそりと挙げられた。友人なんてどこにもいない、二親だってとうに亡くしてしまったぼくらだから、招かれた人々の影はまばら、雇われ神父さえもしらけた顔をしているほどだった。通りがかりの男女は煙たげに式場を眺め、集った人々などは陰鬱に睫毛を伏せている始末。けれどもねえさんは降り注ぐ朝の光に包まれて、あの空よりもきよらかに、うつくしく、しとやかに、その日ばかりの女神の役を遂げてみせたのだ。

 だからねえさん。俗にミス・ブルー。彼女は祝われるべきだった。祝われなければならなかった。ここが〝死の淵〟ロスト・ブルーでさえなければ――そして彼女の花婿が、三日前に死んだ男でさえなかったならば。

 陶器の器がこすれ合い、むずがるように軋んだ音を立てていた。椀の淵に、カップの持ち手にとこびりついた泡は、ねえさんの細い指に磨り落とされて、みるみるうちに下水道へと流れ込んでゆく。水音、鼻歌、ささやかな金音、また水音。夕食後の居間には淡い安寧が満ちている。

 そんなねえさんの鼻歌――きっと本人は外に漏れ聞こえているだなんて夢にも思っていないのだろうけれど――に耳を傾けている男がひとり、テーブル脇のソファでコーヒーをすすっている。節くれだったてのひらには小説。けれども碧く澄んだ両の瞳は、先から同じ一文をくり返しなぞっている。ねえさんに声をかけないのは、彼もまた食後の平穏に身を任せるひとりであるからだ。

「ねえトビアス」

 ねえさんが呼ばう。アッシュグレイの髪筋が、華奢な肩先をひらりと舞った。

「片付けが終わったら、ハンスのところへ行けないかしら。今夜のご予定は?」

「仕事のことならがら空きだよ」途切れた歌声を無念そうに割り切って、彼、トビアスが返事をする。「聖霊祭が近いからね。不用意に僕を使いたくないんだ。いついなくなってしまうともわからないから……」

 きい、と蛇口が鳴る。揃いの皿の片割れが、水受けに下ろされる。じっとりと濡れた掌を拭って、ねえさんがふり向いた。

「日が落ちないうちに家を出なければね。あの子はのんびり屋だったから、会いに行くのが遅れたって怒ったりしないだろうけれど」

「……そうだね」

 早足で家を出ていったねえさんが、数分後に花を数本握って戻ってくる。小花を散りばめるコルニカ、薄紫のパラシェの合間に、ひときわ大輪の青を咲かせるロスト・ブルー。女王の名前を与えられた死の花は、とがった花弁から花芯に向けて、気まぐれな濃淡を見せている。

「行きましょう、トビー」

 傷だらけのソファ、散らばった睡眠薬、転がる酒瓶の狭間に、読みさしの小説が残される。この日もまた、栞が挟まれることもないままで。



 正直なところ、ぼくはあの花婿に期待をかけちゃいなかった。式を挙げたあともまだふたりの亀裂を願っていたほどだ。野暮ったい眼鏡に地味な色合いのセーター、どこまでいっても垢抜けない立ち姿。それに初めて見た姿があんなだったから、唯一認められることはといえば、顔立ちが父さんに似ていることぐらいのもので――。

 ああ、前言撤回だ、これも憂慮のひとつだった。父さん似の男がねえさんの傍にいるだなんて、考えただけでも鳥肌が立つ。

 それでもねえさんが選んだのは彼だった。ロスト・ブルー、死の淵であるこの町に、彼がとどまり続けているのもそういうわけだ。

 ぼくらが家を出たとき、太陽は山際に足を下ろしたところだった。峻険な山脈のあいだに、この町は身を隠すようにつくられている。たちのぼった霧が斜陽にまとわりつき、町全体に茜の残滓を散らしていた。火に包まれたかのような石造りの町並みの最中、けれども、それは凛然と身を沈めている。

 空を突くようにそびえる墓碑。水晶に似て向こう側の景色を透かす、澄んだ青の標石。あれこそがロスト・ブルー、ぼくらの女神にして死の女王。その裳裾で命を遂げたひとびとに猶予を与える慈悲深き主だった。

 ロスト・ブルーの死人たちは、生者とともに町に留まることを許される。期間は秋の終わりに行われる聖霊祭から、翌年のそれに至るまで。この町が死の淵と呼ばれるゆえんだ。

「真っ赤な空。怖いぐらいだわ」

「秋が深まってきたんだ、リズ、ずいぶん寒くなったから」

「すぐに冬になるわね。そうしたらハンスのところに来るのも一苦労になるかしら」

 トビアスが微苦笑を浮かべる。彼の耳殻に並んだピアスの輪たちが、囁くように音を立てた。

 似合いの二人だ。ねえさんとトビアスにすれ違ったなら、ぼくでなくてもそう思うことだろう。従軍経験のあるトビアスの肩幅は広く、だぼだぼのセーターの外側からでも、引き締まった筋肉がうかがえる。対するねえさんはすらりと背が高く、細いうなじを癖のない髪が覆っている。生のにおいの薄いひとだけれど、これで実際に死んでいるのはトビアスのほうなのだから笑い話だった。

 彼が命を落としたのは、今日から数えてちょうど一か月前のこと。いつもの発作に襲われて流し込んだ睡眠薬が決め手であったらしい。数月に渡る薬剤の過剰投与が、トビアスの命をあっけなく刈り取っていった。そうでもしないと眠ることのできなかった彼は、今度こそ、誰にも妨げられることのない眠りにつくはずだったのだ――ここが、ロスト・ブルーでさえなかったならば。

 青の墓碑と太陽に背を向けて町の端へ。山際にはすでに夜の気配がたゆたっている。町はずれの空き地にたどり着くと、ねえさんは瞳にうっすらと寂寥をちらつかせた。

「ねえハンス。ここは寒くない? ずいぶん秋めいてきたもの、囲いを作ってあげた方がいいかもしれないわね……」

 ねえさんが墓石の表面を撫ぜる。膝までの高さの御影石には、一つの名前が不恰好に彫り込まれていた。

 姓はアガート、名はハンス。そこに眠っているのは、姉さんのたった一人の弟だ。

「十三歳の誕生日、おめでとう。ハンス」

 ロスト・ブルーを擁する町に、墓を建てる習慣はない。標なら彼女がいれば十分であり、追悼には彼女の与える猶予があれば十二分だからだ。なおも墓を立てる必要に迫られるとすれば、それは死者であることさえも認められなかったひとびとのためのものに違いない。

 十三年前、生まれずして死んだハンス・アガート。

 ぼくのような。



 死産であったのか、それとも生まれてすぐに死んだのか、ロスト・ブルー、ぼくらの女神も考えあぐねてしまったのだろう。そのうえぼくが――僕の亡骸が取り上げられたのが聖霊祭のその日であったものだったから、母さんも父さんも、とうとう弱り果ててしまったようだった。いつまで待ってもぼくの姿がかれらの目に映ることはなかったし、僕の声がかれらに届くことはなかった。先に前例があるのかどうかも、そもそも死人側の存在が認められないのでは話にならない。ともあれたしかなことは、ぼくがロスト・ブルーに許されることはなかったらしいという事実だった。

 ぼくはどこにも行けなかった。ねえさんの前に現れることも、十三度の聖霊祭のたびにロスト・ブルーの御許へ行くこともできないまま、むやみに歳ばかりを重ねてしまった。

 驚くべきことはそれだけじゃない。降り積もる時間は僕に数多のことを教えていった。言葉を教えてくれるひとなんていなかったのに、学ばなくともものを覚え、望まなくてもあきらめを覚えた。まるで、ねえさんの想像するぼく――成長するはずであっただろうぼくの幻、彼女の描いた理想こそが、ここにいるぼく自身であるかのように。

「ミス・ブルー」

 心ない人々の唇に、ねえさんはそう呼ばれている。

 幼くして両親を亡くしたこと、弟が死産であったこと、挙句恋人さえ喪ったことは、彼女をロスト・ブルーの愛し子に位置付けさせるに足る理由になったらしい。トビアスの籍に入ることもできず、寡婦の肩書も許されないままで、彼女は甘んじてミスの名を背負い続けることとなった。

 だからミス・アガート。ぼくのだいすきなねえさん。せめてあなたは、祝われるべきであったというのに。

「ミス。ミス・アガート?」

 白月の照らす帰り道。不断の呼びかけを続けていたのは、カメラを首から吊り下げた男だった。ねえさんが訝しんで返事をするなり、彼のカメラがフラッシュを焚く。

「失礼、あなたがミス・アガートで間違いありませんか」

「……わたしになにか?」

「少々お話が伺えないものかと。わたくし山向こうの新聞社で記者を務めておりまして、名を――」ポケットをまさぐってしばらく、下卑た笑いをこぼす。「失敬、どうやら宿に名刺を忘れてきたようだ。ともあれリューグナーと申します、お見知りおきを」

 そのときねえさんが瞳によぎらせたものは、不信でも、嫌悪でもなく――ひたすらに純粋な、辟易、であった。なにせねえさんは肉親も寄る辺もない身の上、ミス・ブルーたる彼女のもとを進んで訪れる輩にろくな人間はいない。加え、死者がとどまるなどという神秘に包まれたここロスト・ブルーを、興味本位で嗅ぎまわる犬の類とあれば。

 ねえさんは吃とリューグナー氏を睨み据える。整った柳眉が逆立てられれば、いかなうつくしい人の顔とはいえどもそれなりの迫力が生じるものだった。

「お帰りください、リューグナーさん。あるいはほかの方をあたられては? わたしからあなたにお話できるようなことは、なにひとつとしてございませんわ」

「これは弱ったな。折しも同じことを、この町のみなさんの口からも同じことを聞いたところでして。ただ、ほかの皆さんはそれに加えて、ロスト・ブルーの話であればあなたのもとを伺うようにとおっしゃったものですから……」

「お帰りください」

 ふたたび、今度はかれの手を打つかの如く告げて、ねえさんは踵を返す。断固とした拒絶。リューグナー氏はその段に至っても唇の微笑を保ち、値踏みの目を姉さんに向けて離さなかった。

「聞くに、集団催眠の類だと」

 かれはそうして放る――釣り針じみたことばの礫に、ねえさんが息を詰めた。

 足を止めてしまったねえさんとの距離を、かかった、とばかりに笑みを深めたリューグナー氏が、粘つくような足取りで縮めていく。

「ええ、こちらの調べた限りでは、ロスト・ブルー……すなわちこの町のことですがね、ロスト・ブルーには、どうやら特殊なガスが蔓延しているらしい。無臭にして無色、人体そのものに害を与えるわけではないゆえに暫く存在を否定されてきたのですが、ここ最近になって漸く調査が進んだようで。奴(やっこ)さんは長くそれを吸い続けた人間に、幻覚作用をもたらすという」

 様子をうかがうだけの間。無言を貫くねえさんを二歩三歩と追い越して、リューグナー氏は大仰に肩をすくめてみせた。

「仮説がどこまで信憑性を持つものか未だ判然とはしませんが……ひとつ確かなことにはね、ミス・アガート、どう目を凝らしても、私には死者とやらの姿が見えんのですよ。あなたがいつも連れて歩いているというご主人の姿も、今はね」

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